• アレクサンダー・テクニークとは
  • 日本アレクサンダー・テクニーク協会とは
  • ワークショップ
  • トレーニングコース
  • ライブラリ
  • 教師紹介
  • 教室紹介
  • お問い合せ

 


感じ(クオリア)について

 

感じ(クオリア)について

谷村 英司
 
 
  今回の“考えるワーク”で話した感覚にシフトするということを考えてみると、私はATのワークによって得た感覚的経験についてそれを言語化していることに気がつきました。つまり感覚的な経験が私の話の原点にあるということです。そしてそこのところをいつも再度経験し、見直して、この感覚はこう言うこともできるのではないかとか、こういった方が正確ではないかと試行錯誤し、悪戦苦闘しているわけです。
この感覚的経験を専門的な分野では“クオリア”と呼んでいます。このクオリアをネットのウィキペディアで調べてみると以下のように説明されています。
 

“簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕え、それが神経細胞の活動電位として脳に伝達される。すると何らかの質感が経験される。このあなたが感じる「感じの質」がクオリアである”
 
 
このクオリアの特徴の一つは、“主観的”であるということです。そしてこの主観的ということを言いかえれば、“内的”なものとも言えるような気がします。主観的であるからこそ内的なのです。ちなみにクオリアという言葉は、「質」を意味するラテン語の名詞 qualitas (あるいは qualis) に由来しているそうです。この質というのも“モノの中身”であり、“内面に備えているもの”という意味になります。
 
ですから私がこれまでATのプライマリー・コントロールやダイレクションのことを“内的な働き”とか“内的な活動”と言ってきたものは主観的なものでもあり、私の中身のことだったわけです。これは“私秘的”とも言われています。私自身の内側で感じていることですから、他人からは見ることが出来ない個人的な現象だからです。
 
こう考えていくとクオリアは、われわれにとって最も身近な経験でありながら、説明が困難なものであることがわかります。そういう意味で二つ目の特徴として“言語化不可能”とも言われています。例えば、生まれつきの色盲の人に「赤い」というのがどういうことか、「青い」というのがどういうことかを伝えようにも、言語化して質感そのものを伝えることは困難なことなのです。
 
そんなわけで科学的にうまく扱えるかどうかもはっきりしていない代物なのです。これを専門家の間では「クオリア問題」と呼ばれています。現在のところ、クオリアとはどういうものなのか、科学的な「物質」とどういう関係にあるのかという基本的な点に関して、研究者らによる定説はないそうです。現在のクオリアに関する議論は、この「クオリア問題」を何らかの形で解決しよう、または解決できないにしても何らかの合意点ぐらいは見出そう、という方向で行われており、様々な考え方が提出されています。
 
哲学の側では心の哲学(心身問題や自由意志の問題などを扱う哲学の一分科)を中心に、古来からの哲学的テーマである心身問題を議論する際に中心的な役割を果たす概念として、展開・議論されています。また科学の側では、神経科学、認知科学といった人間の心を扱う分野を中心にクオリアの問題が意識や気づきの研究として議論されています。
 
  ここまで話してきて私が思うことは、このクオリア問題は、まさにアレクサンダー・テクニークの問題でもあるということです。F・M・アレクサンダーが発見した「頭が前に上に、背中が上下に長くなり、左右に拡がり、両脚が大地に対抗する」という言葉も彼のクオリアから来たものだと思うのです。
したがってこれは本来的に彼の主観的で内的な質の経験であり、言語化不可能なものだったのです。それにもかかわらず何とかそこに生徒と合意点を見出そうとして悪戦苦闘した結果、ハンズオン(手で示す)という手法を考えだし、そのことを研鑽したと思うのです。
したがってアレクサンダー・テクニークが上手く受け継がれていくか否かは、このハンズオンのスキルにかかっていると私は確信しています。何故なら、アレクサンダー・テクニークにおける内的な働きは、言語化不可能だからです。言い換えれば言葉だけで伝えられる代物ではないのです。
 
  もうひとつこのクオリアで思うことは、われわれ人間の大人は、自分自身の感じ(クオリア)をいつの間にか大切にしなくなっているのではないかということです。その結果、自分自身を大切にしなくなり、自分が見えなくなっているような気がします。自分自身を見失っているという言い方もできるかもしれません。何故ならクオリアは自分自身そのものだと思うからです。それではどうしてわれわれは、これを大切にしなくなったのかと考えてみると、先ほど話したクオリアの特徴である主観的で、言語化不可能というところと関係しているように思います。自分自身の主観的な感じなんて信用できないし、自信が持てない。さらにこの感じを正確に言語化し、他人と理解し合うなんて作業自体が面倒なわけです。そんなわけで自分のクオリアよりも容易に言語化できる、客観的な言葉、観念を重宝してしまうのでしょう。
 その結果、自分自身のものでない他人の、特に偉い人、優れた人と呼ばれている人たちの言葉を重宝し、自分自身そのものであるクオリアから知らず知らずのうちに遠ざかってしまうのかもしれません。
 
 最後に三つ目のクオリアの性質を話しておきたいと思います。それは“誤り不可能”と言われているものです。それは誤り得ない(訂正を受けない)もの、ともしばしば言われています。もちろんわれわれはそのことに関して、様々な錯覚を持ったり、また時に幻聴を聞いたり、外界の実在と対応しない様々な感覚に対する認識を持ってしまいます。しかしそれはこの感じに対する認識の誤りであって、クオリアそのものの誤りではないわけです。そうした体験された感覚自体は、誤りえない実際の体験なのです。そういう意味で誤りようがないのです。

ですからこの誤りようのない絶対のものであるあなた自身のクオリアをもう一度見直してみてはどうかというのが私の提案なのです。それはあなたの“質”であり“中身”です。結局、そこにしか自分自身の問題の答えはないように思うのです。

  • 2016年April11日(Mon) 15:35 JST

▲このページの先頭へ