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6月のワークショップ特集

 

二つのワークショップを終えて       

谷村 英司

 6月は、ワークショップ月間となりました。まずは3日(土)から11日(日)までの9日間のスキルアップのための集中ワークショップで当研究会を卒業した教師たちが一堂に集まり、ワークをとおして実験したり、話し合ったりの中でスキルを研鑽し合いました。そして、今年から始まった鹿児島でのトレーニングコースの新しいトレーニーも参加されて、チョット新鮮な雰囲気もあり、大変充実した日々を過ごすことができました。

 いつも思うことですが卒業した教師が時間を割いてさらに研鑽したいと思って集まれるグループは私の知る範囲では、世界を探してもそんなに多くはないことなのです。そういう意味では当研究会は誇れると私は思っています。一旦、一人前の教師となればそれなりのプライドやエゴがあるものです。そのことの良し悪しは別にしてそれは当然と言えば当然なことなのです。しかしそれゆえに謙虚な気持ちで、自分の持っている技術について相談したり、話し合ったりすることは難しいことなのです。にもかかわらず、集まってきた教師の方々に、ワークに対する探求心と勇気に敬意を表したいと思います。このワークショップがいつまで続くかわかりませんが、毎回毎回フレッシュな気持ちでできるだけ長く続けていけたらというのが私の希望です。               

さらに月末にはイギリスからAT歴50年のピーター・リボーさんが当研究会のために3日間の集中ワークショップをしてくれました。

 彼は19歳の時に、以前に紹介した“As I See It”の著者であり10歳位の時から、F・M・アレクサンダーから直接学んだパトリック・マクドナルドの門をたたき、AT教師になった人です。リカさんよりは少し若いですが、同門であり旧知の仲です。私とは2004年のイギリスのオックスフォードで開催されたATのコングレス(世界中の教師の集い)以来ですから12年くらいのお付き合いです。去年の6月にも来ていただいたのですが、今回は、われわれの持っている技量が理解されてきたのか、彼も言っていましたが、かなりレベルの高いワークショップになりました。以下が、後日もらった彼からのメールです。
 
 
エイジさんに
 
取り急ぎ、私がどのくらい奈良で私の滞在を楽しんだかを言いたくてメールしました。
あなたと教師の皆さんとともにワークすることは本当に楽しかったです。
皆さんが年々より良くなり、私がそのことがよりわかってくると、当然ワークに対する興味深くなり、面白くなります。
私と同じくらいにあなたも楽しんでくれたことを望んでいます。
ご多幸をお祈りします。
ピーター
 
お陰で私個人としても大いに学ぶところがありました。具体的にはまた後ほど書かせてもらいます。

それではまずは、今回参加していただいた教師のひとりである喜多さんからの感想レポートをご紹介させていただきます。

 

 

集中ワークショップ感想レポート     喜多千絵
 
 今回も毎日グループレッスンとプライベートレッスンがありました。谷村先生と中白先生が同時にプライベートレッスンをされる様子はいつも見ていて飽きることがなく、いろいろなことが私を刺激し、学びになっています。言葉とハンズオン、全身全霊の活発な動き、繊細で大胆な空気やユーモアのセンス。きめの細かい、1対1のレッスンの大切さと今回のテーマをその姿で示してくださいました。
 今回のテーマは「トータルな視点で自分自身を磨くこと」だったように思います。技術だけでもなく内面だけでもなく個人だけでもなく、たとえ部分の練習や研究に取り掛かっていても、部分と全体がより良く変わり、関係付くようなところに気づきますか、それを見つける努力をしましょう、ということでした。
 
1日目、先生はこんなことを仰いました。「今内側でどんなことが起こっているのか感じますか。意識が騒がしいなんてことはポイントではありません。そういうことはもうみんななら分かっていることです。わざわざ言わなくても気づいたらさっさとすることをして、感じることに淡々と向き合ってその中で今の自分の問題を見つけてください。」と。私は、AT教師なら自分の態度に敏感になり意識的な努力を続けることは理に適った努力の方向であり、当然のことでしょう、と思っていました。でもちょっと意識的な努力の捉え方が違っていました。私の場合、静かにならないと感じられない、まず態度に気を付けて落ち着いたら次に行ける、と思っていました。それで良いと思っていたので、技術を磨くことや何かすることは後回しにしていました。そして順番や条件を作ってしまって、自分自身を不自由にしていたことに気づきませんでした。
先生は「そんなことにいちいち捕らわれないで、騒がしくても整っていなくてもそのままとりあえず始めてみてください。そうしながら何か感じ始めて変わり始めるのを見つけるのです。もうみなさんは十分そんな時期に来ているのだから。」そして「そのためには、具体的で実践的な技術を磨くことです。それによって自分自身も磨かれるのです。」と仰いました。私は今までそのような見方をしていませんでした。細かい技術を練習することと自分の成長や喜びは別ごとで結びつかず、バラバラに取り組んでいたことに気づきました。
 

 具体的にはまず、自分の耳と耳の間を感じてみることから始めました。そのことによって今、首が背中のラインからどのように外れて前へ下へ倒れているのかや、首・背中の支えを失った頭が、どのように膨らみを失いつつ落ちているのか、額や顎がどう関わりながら顔が立体的でなくなっていくのかを観察しました。知識は置いておいて、今起きている自分自身の内的な方向性、習慣の状態、そこから見えてくる問題を自分自身で見つける練習を何度もしました。耳と耳の間に何か手掛かりがあるようでした。そしてハンズオンでは見た目を直接的に直したくなる直情的な方向ではうまくいかないことを実験し合いました。そして間接的で理知的な方向を探しました。その直情的な方向(エンドゲイニング、バーチャル)と理知的な方向(意識的、リアル)のバランスの間で教師の抑制力、精神力、感性は磨かれていくのかと思うと、やっぱり問題に気づくこと、失敗をすること、満足しないことがどれだけ助けになり、チャンスを与えてくれるのかが見えてきました。相手の顔を直接的に上げてしまった自分、相手が動けば良しとして問題点をしっかり捉えず、時折中身の薄い練習をしてしまった自分に今回気づきました。

 さらに教師が目指すのは指先が生きてくるような自己の使い方を見つけることでした。今回はかなり詳しく、手首、肘、鎖骨、肩甲骨、肋骨と首・頭との関係性を話し合い、試行錯誤しました。その作業の一つ一つが、技術だけでなく自分自身、そして他の人やまわりと関係し合って、全体的に何かが少しずつ変わってきているように感じました。その様子が興味深かったです。ATワークを通して、研究会のみんなが自分の内面の喜びや活力を感じつつ、日々努力しているのであれば、とても貴重で幸せなことだと思います。私にとって今回は、ATワークにそして自分自身にどう向き合っていきたいのかが、明確になり始めた集中ワークショップでした。
 
 
 
 
 

静かになろうとする私     
 
谷村 英司
 
 私が自分自身の騒がしさや落ち着きのなさに気づいた時、そういう自分がイヤですぐさま、何とか静かにしようと、あるいは落ち着こうとします。しかしそういったことで果たしてそれらを取り戻すことができるでしょうか? おそらくそれは無理なことでしょう。少なくとも私は無理でした。その理由をよく考えてみると、騒がしい自分に気づいたとします。そしてそこでもう一人の私が「静かになれ!」とか!「落ち着いて!落ち着いて!」と慌てて騒ぎ出したとすればどうでしょう? きっとまた別な騒がしさに悩まされることになるのではないでしょうか? あるいはこんな例えはどうでしょう? 私にとって嫌な出来事があり、そのことを「忘れたい!」とします。それ故に忘れようと努力します。しかし「忘れよう!」とする自分がいる限り忘れることはできないのではないでしょうか? 私の意識の中で忘れようとする私がなくならない限り私は忘れることができないわけです。したがってこういうやり方では私は静かになれないことに気づきました。それではいったいどうすれば私は静かになれるのでしょう? 私の結論は、静かになるための如何なる直接的な反応もしないでおくことではないかと思うのです。私はそれにただ気づいているしかないのです。
 しかしそれでは不十分でしょう。私は自分の騒がしさに気づきながら、何かなすべきこと、あるいはしたいことといった実際的なことに取り掛かるべきだと思うのです。つまりそれは静かになるという目的から言えば直接的な反応ではなく、間接的な反応と言えるわけです。具体的な例で言えば、静かになるためにマントラを唱えたり、写経をするという行為に似ているかもしれません。そしてそのことに私の意識が少しずつシフトされて、今、ここの出来事に向かうことができることによって私は静かになれると思うのです。
 
直情的な反応と理知的な反応
 
 この二つのうちの前者の反応、つまり反射的にやみくもに静かになろうとする反応のことについてF・M・アレクサンダーは“直情的な反応”という表現をしています。これまで話してきた表現で言えば、“エンドゲイニング”であり、“幻想に駆られた反応”のことです。このことについて彼の著書”Use Of The Self”(自己の使い方)の中でこんな言い方をしています。
 
「直情的な調整をして行く方向を決めて使えば、全く不満足になりその時に引き起こされる感じはあまりにも道案内としては信頼に値しないから、連れて行かれるところは正反対になる、つまり自分のやろうとしていることや自分のやっていたつもりのことと逆になってしまう。」
 
その一方で、後者の反応のことを“理知的な反応”と言っています。
 

「一方の、意識的で理知的な方向は、その方向へ行くことに引き続きプライマリーコントロール(初めに起こる大事な調整能力)が生じ、自分の機構でうまく働いて統合されていく。」

理・知・技を磨くこと
 
  そして私たちがこの理知的な反応を磨きたいと思うなら何でもいいと思うのですが、何か技術を磨くという実際的な作業を通してのみ磨かれると私は思っています。そしてわれわれAT教師で言えばハンズオンの技術です。技術を磨くという作業のプロセスで私たちは直情的な反応をしてしまうものなのです。そしてそのことによって技術が磨かれるどころか、うまくいかなくなり、自暴自棄になりあきらめてしまうという結果を招くわけです。
  
 技術を磨くプロセスではその事実が歴然と現れるのです。私はこの作業のことを「理・知・技」と呼んでいます。この中の“技”を磨くという作業を通して、“理”について“知”る、あるいは悟っていくのです。“理”とは「物事のコトワリ、道筋」のことです。これらは内面が成長して行くためにはとても大切なことだと私は思っています。
ところが昨今はその人間の技術の代わりに機械やコンピューターがやってくれるようになり、技術を磨くということが少なくなってしまいました。その方が人件費を削減でき、そのことを習得するための時間も節約できるというわけです。経済的、効率的な側面から言えば、確かにその通りで、賢い選択なのかもしれません。しかしわれわれ一人一人の人間の内面を育てる、あるいは磨くという側面から言えばどうでしょう? この調子で我々人類が進んでいけば先ほど私が言った理由で直情的で、理不尽な人間ばかりになり、理知的な判断ができる人間がいなくなってしまうのではないか。そしてその結果としてそんな世界ができてしまうのではないかと私は危惧しているのです。今現在、世界中で起こっている様々な問題はそのことを表しているように私には映るのです。
 
ピーターさんのワークショップを受けて
        
ピーターさんのワークショップの中で私にとって考えさせられる金言が多くありましたが、それらの中のひとつのことについて私が今思っていることを話してみたいと思います。
 
大切なことは自分が楽しんでいるかどうかだ
 
 参加した教師の一人が「ピーターさんにとってワークする中で最も大切にされていることは何ですか?」という質問がありました。その時私はATにとって何か重要なことが聞けるのではないかと期待しました。おそらく質問した教師もそうだったと思います。ところが意外や意外、しばらく考えた後「生徒と楽しい時間を過ごすことだ」という単純な答えが返ってきました。
 
 私がその答えに意外だと感じた理由は、私が期待していたのは彼のポリシーとか信念といったことが聞けると私は反射的に思い込んだからでした。
そこでポリシーとか信念を持って人に接するということは、どういうことを招くかを考えてみたくなりました。勿論、それらはある程度必要なことだと思います。しかしそのことをあまり大事にし過ぎるとどういうことが起きるでしょう? 私が思うにおそらく強制か戦いが知らず知らずのうちに起こってきます。なぜなら相手もポリシーや信念を持っているからです。教師の側のその強制的な要求に生徒は戦々恐々とし、教師はそのポリシーを理解しない生徒に対して怒ります。もしかしてそれは教師の側では善意から発した反応かも知れませんがその結果、彼が言った楽しい時間が過ごせなくなることは確かです。これも善意から出てきたものではあるけれど直情的な反応と言えるのかも知れません。
こう考えてみると、ポリシーとか信念を持つことが少なくとも一番大切なことではないかもしれません。これは生徒の側でも教師の側でも同じことのように思います。
 
楽しいこととは相手を喜ばすことではない
 
 それでは彼が言う楽しいこととは何だろうと考えてみました。そこで、このことをAT教師である私が楽しいと思うのはどんな時なのだろう? と私の立場から考えてみました。私が言えるのは少なくとも生徒の喜ぶことを言ったり、したりすることではないと思いました。これは単なるエンターテイメントやサービスであり、学びではないからです。これは生徒の側からも言えることで、生徒にとって大切なことは教師の喜ぶことを言ったり、教師の好みや期待通りにすることではないと思うのです。そのことが最重要になってしまうと生徒は自分自身について気づけなくり、学びについて疎かになってしまうからです。そう言った反応も生徒の側からは善意から来るのかも知れませんが、教師の側から言うと、この生徒は本当に学ぶつもりはないのかな?とまで思ってしまいます。余談になりますが、ワークショップで時々、私のことを「素晴らしいことを先生はなさっている。」と褒めてくれる方がおられます。大変ありがたいことだと思いますが、そういう人に限って、ワークショップのオーガナイズはしてくれますがレッスンには来られません。(笑)要するに学びの場では、そういった気遣いは必要のないことのような気がします。学びの場で必要なことは生徒も教師も本当のことを言うことだと私は思っています。
そう考えていくと私にとって楽しい時間とは、先ほど話した理・知・技を探求するそのプロセス自体にあるようです。そのことができた時にこそ喜びを感じているのでした。つまり楽しい時間を過ごすためにはかなりの抑制力と注意力がいることになります。
  • 2017年August10日(Thu) 18:14 JST

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