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2020 新春鼎談

谷村(T): 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
松嶌(M): おめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。
中白(N): 明けましておめでとうございます。お二人には昨年も大変お世話になり、ありがとうございました。
T: 去年を振り返ってみて、どんなことがあったかなと思っていると、まずは令和元年でしたね。そこで思い出したのが去年の新春鼎談は奇しくもこの“和”ということが話題になりました。あたかも令和という年号を予言していたかのようでした。
N: 和は穏やかで争いがないという意味でしたね。そして令和には「美しく心を寄せ合って、新しい文化、新しい時代を切り開いていく思いが込められている」とのことですが、「令」という意味が私にははっきりしないところがあるのですが。
T: そうですね。実は私もそう思っているのです。会長はこの「令」に関して何かご存じですか? 私としてはピンとくる答えが知りたいのですが。
M: 出典の万葉集では「令月」という熟語で「良い月」「めでたい月」という意味で使われているので、良い、めでたい、ということですね。象形文字としての漢字は、ひざまずいて神や王の言葉を受ける図から「命令」とか「律令」の令で、強制される感じがあるといって否定的な意見もあったようです。私はシンプルに“仲良き事は善き哉”というふうに考えていいんじゃないかと思っていますが。
T: なるほど。そう考えると「和をもって尊しとなす」も近いものがありますね。
M: まさに聖徳太子が望まれていたのが、この令和の精神だと思います。
T: それと象形文字としての王と言うよりも私は人知を越えた智恵という意味から神と考えたいですね。そしてそこからの啓示を受ける図ということを聞いて、思い出すのが野口三千三さんの著書の対する『からだに貞く』です。彼はこの「貞」という漢字を「きく」と読みました。そしてその意味は「からだの神に問う、あるいは聴く行為」のことだと言っています。ですから神に問い、聞く行為が「貞」でその啓示を受けとる行為が「令」と言えるような気がします。
N: ということは、神様に問い、聴き、その結果「和」という啓示を神様から受け取るということが「令和」ですね。
T: その解釈気に入りました。(笑
M: 異議なし! おとだま(音霊)としての「れい」は神様の言葉としての鈴の音に通じますし。

N:

 

 

 T:

   

それと去年の暮れに日本アレクサンダー・テクニー研究会では、鹿児島トレーニングコースの第4期生が無事卒業式を迎えることができ、嬉しく思っています。

そうそう、そうでしたね。奈良、天理の山辺の道にある石上神宮にお参りして、隣にある閑静で、しゃれたレストランが卒業式の会場でした。会長もお忙しい中お出でいただきました。

N: ありがとうございました。
M: お招きいただいてありがとうございました。会場のすぐお隣りが日本最古ともいわれて皇室につながる石上(いそのかみ)神宮で、元年のあいだにご挨拶にうかがえたことが嬉しかったです。
T: 料理も美味しくて、いい雰囲気でできたと思いますが。どうでしたか?
M: しっとりとした古民家レストランで、印象に残る場所でしたね。今回初めてお会いしましたが、同じ鹿児島で学び続けられたこともあって、卒業生の皆さんの間に深いつながりがあるように感じました。
   
 
N: 「鹿児島の井上和代先生のご協力もあり、無事に3年間のトレーニングコースを終えることができました。井上先生をはじめ、トレーニーの皆さんにも本当に感謝しています。そして皆さん真摯にATに取り組んでいただけたと思います。
T: そうですね。ホント真面目に取り組んでいただけたので、非常にスムースなトレーニングコースでした。そして私自身も学びの多い3年間でした。
N: 私は新大阪から鹿児島駅まで片道4時間、どうなるやらと思っていましたが、その時間を有意義に使いながら通っていました。谷村先生はどうでしたか?
T: 私の場合は、有意義に使ったと言えません。最初の博多までは爆睡して、そこからボチボチお腹が空き始めて、駅弁を食べて、また食後の睡眠を鹿児島駅までとっていましたね。(笑)
M: 雨の日も風の日も、灰が降る日、台風もあったようで…。
T: そうですね。私は一度だけ大雨の影響で新幹線が動かなくなって休みましたね。順子さんはどうでしたっけ?
N: 私の場合は台風の時に鹿児島からの帰り1時間くらい待たされたことはありましたが、それ以外はスムースでラッキーでしたね。
M: 先生方のお祝辞で「これが始まり」と言われましたけれど、九州の南の端でダイレクションを伝える教師の誕生、すばらしいです。改めて、おめでとうございました。
T: それはそうと、去年、私はどんなことを考えていたのか思い出そうとしているのですが、お二人はどんなことを考えた、あるいは考えさせられた一年でしたか? いろいろあるでしょうけど、一番思い当たることがあれば聞いてみたいのですが。
M: 考えというより、私のドジとして6月に深い溝に落っこちて右腕を折ったんですけれど、その猛烈に痛かった間も気持ちは影響を受けずにいることが面白かったですね。出された鎮痛剤をのまずに痛みを味わいながら、周りの人と話すのも普通の気分でいられたので、もちろん想像ですけれど、死ぬときもそんな感じで平和に迎えられるような気がしました。
N: 普通だったら、痛みに囚われると仕事や自分自身の行動に支障をきたしますよね。でも、そうはならなかったんですよね。何か問題あっても淡々とやるべきことを落ち着いてできた時って、心地よいですよね。
T: それは自分自身に対する意外な経験と発見だったんですね。
M: たくさん勉強になりました。もうお医者さんの悪口を言うのはやめようとか、心が折れる前に骨を折ろう、とか。(笑)
N: でも実際は腕の骨が折れても心は折れなかったんですね。(笑)
T: これで死ぬ準備はできましたね。(笑)私はまだまだジタバタしそうです。
N: 私は2年前から母の介護をしないといけなくなりましたので、去年も仕事しながらなので忙しい1年でした。今までも家事はしていましたが、ひとりで全てすることの大変さに、やっと気づかされました。そして年をとると子どもに戻ると言いますが、母がわがままになり、何年ぶりかにイライラと怒りが出てきました。そして、その気持ちをその瞬間抑制できなかった経験も良い勉強でしたね。普段自分のことや仕事では抑制ができているのに、母に関してしっかり反応してしまいます。
T: 確かに身内は自己同一化があるのでついつい感情的になってしまいますね。究極の抑制の実践かもしれません。
M: ワークに影響しないほうがおかしい状況で、まさにトレーニングですね。
N: 実は私も疲れていたのか、玄関先で小学生の時以来、久しぶりにこけました。転んでいく時、上半身の意識があり、コンクリートが顔に近づいていくのを感じながら転けたのも面白かったです。
T: 順子さんも転んだんですか。それは面白い! 実は私も年末の鹿児島のトレーニングコース中、夕食に行く途中で転んだんですよ。私の場合は薬指と小指を軽く捻挫しただけですけど、三人そろって転ぶなんて奇遇ですね。それこそ神様からの何らかの啓示ですかね。笑)「どんなときも目覚めていなさい!」とかね。
M: 「足元が大事」っていうことかな。危ないのはたいてい考えごとをして意識なく歩いているときで、見えているつもりでも反応できない、暮れから厳罰化された、スマホを見ながらの運転みたいなものですからね。
  
N: それとその時に気づいたことがありました。転んだとき体は大丈夫でしたが、前歯を折ってしまいました。歯医者で直ぐにつけて頂いて痛みもなく問題なかったのですが、「1ヶ月だけ、折れた前歯と左右の歯を固定して安定させましょう」と言われました。そのことで、歯から歯根まで固定したことによってかえって痛みと頭痛を感じました。その理由は、本来は歯も内側が働いているものなのにそれを固定されたことによるものでした。この経験から改めて歯茎も歯根も歯も内側は動いているものなんだということに気づきました。そして、ATを学んでいて良かったと思ったことは、自分に方向付けしたら痛みは消えました。でも不自由な感じはもちろん残っていました。そして、1ヶ月後固定されていた歯を外してもらうとスッキリ。歯や上顎骨の内側が自由に働き出すのを感じました。
T: 歯医者さんは、傷ついたところを刺激しないようにという意味で固定されたのでしょうけど、固定は安定を得られますが、活動する自由を奪ってしまいますね。内的運動においてはとても大切なことです。そして活動することの意味は、結局、他のものとかかわる、あるいは関係するところにあると思うのです。言い方を換えると、かかわりたい、関係付きたいから活動すると言ってもいいかもしれません。したがって、固定するということは関係付くことを必要としない、あるいは失うということだと思うのです。固定することは、内的な活動が奪われ、からだ全体の関係性が失われていくという典型的な出来事ですね。
M: 固定の安定と活動の自由、孤立と連帯、私たちはそんな両方のバランスをとって暮らしているつもりですけれど。
T: からだに関しては、あるいは生き物に関しては、固定した安定はなく、あるとすれば死んだときだけで、生きている間は“動的”であり、そこに「動的安定」あるいは「動的平衡」が必要となってきます。そのためにバランスというものが必要となるような気がします。固定して安定したものにはバランス感覚は必要ないわけです。
M: 止まったら倒れるって、生きていることはまるで自転車操業ですね。(笑)
N: 回っているコマのようなイメージが私にはあります。
T: それらは大変なことのようにイメージされるかもしれませんが、コマも自転車もうまく動き出したら楽しいですね。だから生きることは楽しいことなんです。笑)
N: 大変だったことも今思えば良い経験だったなぁと思うこともありますよね。辛く大変な状況の真っ只中にいる場合は、上手く回ってなくて辛いだけと思う時もありますが、しかしその状況も固定しようとしなければ動き出すんですよね。
T: そして動いていれば安定、平衡を取り戻すのです。今年はこの動的安定の運動の中で外側とつながり内側ともつながることをテーマに話していきたいと思っています。
M: 時代は自動運転なんていう方向に進んでますが、コケないよう緊張感を失なわずに、今年も人間らしく前進したいと思います。
N: 今年もよろしくお願いいたします。
  • 2020年February18日(Tue) 14:37 JST

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